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細川氏入国後の明暦年間(1655年頃)には妙体寺町から井川淵町あたりまで町になり、延宝年間(1675年頃)には西子飼町・東子飼町一帯も町になっています。ここで興味深いのが、子飼商店街となっている鋤身崎(すきのみざき)の通りです。城下町はほぼ東西と南北方向の道路で構成されていますが、ここだけは東北−西南方向で約45度斜めになっています。都市計画の前にあったメイン道路の両側に次第に町が出来て、元の通りがそのまま取り残されたものと思われます。 加藤清正の城下町計画の頃の東北の端が立田口です。立田口というとJR立田口駅あたりと想像しますが、本来の立田口は坪井竪町(坪井三・五丁目)から子飼付近にかけての地名でした。通称「赤鳥居」と呼ばれているのがその地名を名前にもつ立田口大神宮の参道の鳥居です。江戸時代にはその前に立田口構(かまえ)が設けられ、参勤交代の行列の出入り口でもありました。当初の城下町では、このあたりが外郭であったろうと考えられ、現在の道路もよく見ると、鳥居前で少し道の幅が違っています。昔はこの部分から豊後街道の杉並木も始まっていました。 街道の北側には重臣たちの下屋敷が作られ、外郭の守りも兼ねていました。その一帯の特徴は、細くて幾重にも折れ曲がった道路で、必由館高校の東側は通称「七曲り」と呼ばれています。今も城下町の雰囲気を漂わせる地域です。
この地区で桃を栽培する村上さんは、約13タールの畑で白鳳(はくほう)や白桃などの種類を栽培しており、農産物直販所「JA上熊本ふれあい青空市場」にも出荷しています。おいしい大玉の桃を育てるため、つぼみの時期に上向きの花を落とす摘蕾(てきらい)という作業をして、残す果実を決めるそうです。また、畑に雑草を生育させることで、土に水分を蓄えるといった工夫もされていました。「5月ごろにネットを張って、害虫や鳥害対策をしているおかげで、ほとんど農薬を使わずに栽培できます。やっぱり、すぐ口にするものだから安全が一番。評判もよくて、甘さが自慢ですよ。もっと上熊本の桃を知って欲しい」と村上さん。 甘くておいしい桃を選ぶには、うぶ毛があって変形していない果実が良いそうです。ふっくら丸みを帯びた薄紅色のたくさんの桃が、きれいに色づいていました。
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