日本三名城の一つである熊本城は、もとは茶臼山(ちゃうすやま)と呼ばれた小丘陵全体に縄張り(平面設計)した城郭で、その総面積は98ヘクタールにもおよびます。茶臼山は阿蘇の火砕流が積もった地層で、火山灰と軽石が40メートル以上の厚さに堆積(たいせき)しており、京町台地のつづきが断層により切り離れたものと考えられます。河川などにより削られた周りが崖(がけ)をなし、石臼を重ねたような地形のため茶臼山と呼ばれたものでしょう。この地層は保水力が弱く、そのため城内の井戸は驚くほど深いものになっています。
茶臼山の旧地形は東が高く、西になるほど低くなっていて、熊本城もそれに従って高い東側に天守をはじめとする本丸が配置されています。しかし、熊本城の変遷を調べてみると、時代による変化も考えられます。
城内は堀や石垣で幾重にも区画された平面で構成されています。城郭用語ではこの区画を「曲輪(くるわ)」と呼んでいます。曲輪の名前も時代によって様々ですが、現在用いられているのは史料が豊富な江戸時代後期の呼び方です。これによれば、ほぼ現在の有料公園の部分が本丸で、そのほかはすべて二ノ丸と呼ばれていました。本丸は文字通り城郭の中心で、石垣で厳重に区画され、それぞれ平左衛門丸とか飯田丸とか、細分した曲輪名がありました。
写真の絵図が江戸時代後期の熊本城の範囲を表したものです。東から南側に堀の役目も持った坪井川が流れ、南西側には水堀が廻(まわ)り、北側は崖に囲まれています。中央の右側で「城内」と記したところが本丸の部分です。その周りが二ノ丸で、現在の二ノ丸公園をはじめ、北は新堀、東は千葉城、西は藤崎台(時代によってその西の段山まで)、南は古城におよびます。多くは上級武士の屋敷になり、要衝には櫓(やぐら)も配置されていました。
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このコーナーは富田 紘一市文化財専門相談員が執筆しています。 |
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「新熊本市史」別編第1巻 24. 二ノ丸之絵図
天明年前後(1781年前後)(推定)
熊本県立図書館蔵 |
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熊本城周辺の航空写真
絵図と現在の状況を比較してみてはいかがでしょうか |
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